2003~2020年度の川崎医科大学衛生学の記録 ➡ その後はウェブ版「雲心月性」です。

逝く年,来る年

2005/04/02  大槻剛巳  記

2005年3月末は,新潟での日本衛生学会にフル参加もしましたし,結構,多忙に過ぎていきました。

教室関連で申しますと,送別会を年度末,3/25に行いました。これは,助手の高田晶子先生が,退職されるということ,それと,血液内科から預かっておりました大学院生の辻岡先生について,どうしても,ここ1年半は,大槻自身が骨髄腫や造血器腫瘍から離れてしまっていることと,彼にお願いしていた Vitamin K2 による myeloma 細胞の apoptosis という project,並びに, KMS-20 における IFN-γ投与に伴う Trail の発現亢進と誘導される apoptosis の仕事が,まぁ,区切りがついたので,血液内科に帰っていただいた上で,なんですか,検査診断学の通山教授の下で,仕事をすることになったそうです。

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高田先生は,大槻が衛生学にお世話になる前年に,岡山大学の農学部食品化学研究室(高畑教授)の修士課程を終えて,我々の川崎医科大学衛生学に助手として着任してくれてました。ちなみに,高畑教授の研究室からは,昨年度は,三浦先生も来てくださいました。加えて,高畑先生ご自身は,この春から,関東の方へ御移動されたと,同窓生の高田(晶)・三浦から聞きました。過ぎ行く時の流れと云ってしまえば,それまでですが,我々とそれなりに繋がりが出来た高畑研究室の人々が,其々に自分の人生を歩むことにより,その途の距離が,少し離れていく印象となり,これは,是非でもなく,感情としてメランコリックですね。

話が,少し逸れましたが,高田先生は,つまり,大槻が衛生にお世話になった時依頼,ずっと一緒に働いてきた仲間でもありました。学会とかも結構一緒に参加しましたし,最初の年度の札幌の日本衛生学会,京都での 9th ICORD (International Conferance on Occupational respiratory Diseases: ちなみに10回が今年,北京であります),盛岡の日本産業衛生学会,横浜での日本免疫学会,等々,なんだか,食事をしたりしながら,あるいは,発表前の準備も一緒にしながら,わいわいと騒いでいたような記憶で一杯です。

また,学生実習(2003年度で中断してましたが,昨年度,2年生の選択アドバンスコースで復活しましたね)では,主に,食品関係を受け持ってくれて,まぁ,直前には,買出し(サラミやベーコンや,味噌やなんやかや,主婦業練習って訳でもなかったでしょうけれど)に出かけたり,これまた,大変だったでしょうね。でも,出身も食品化学だしなぁ,適材適所ってところでしたでしょうか・・・・。

彼女は,リハビリの授業や短大MEの授業を受け持ってくれてました。授業に際しては,衛生学~公衆衛生学を身近に感じてもらおうと新聞の切り抜きなどをプリントにして,かつ,授業で述べることをビッシリ準備して行ってくれてましたし,これは,なかなか,ヴォリューム溢れる授業だったのでは,と,思ったりします。それと,高田先生は,うちの教室の卒研で来たMEの子達に対して,非常に面倒見良く接してくれてまして,実際の project の実験も優しく手伝ってもくれましたし,非常に,感謝しております。MEの学生さんにとっては,良いお姉さんという感じだったのでしょうね。多分,いろんな悩みなんかも聞いてくれていたのでは,と,今思ったりします。

彼女は,基本的に真摯で真面目で裏表もなく物事に自分の全力でぶつかっていくような正攻法の人です。そして,その姿勢によって,僕らはとってもいろんなことで助かりました。そして そして,彼女のこれらの資質は,本当に貴重なものだと思います。特に昨今のような殺伐とした時代,あるいは,携帯の電波の届く範囲だけの限られた親密関係にのみ安穏を見出して,逆に,その外に対しては,過剰な拒絶を示すような若者の世代が跋扈する時代に,すべてに対して,真摯に誠実に向かうこと,自分の生き方を知った上で,一つ一つの石を確実に積み上げるように物事に対処していく姿勢を貫けること,これは,本当に学ぶべき姿勢と思います。彼女は,彼女のこの生き方に順じたからこそ,今回,家庭に向けての誠実さを選んだのだと思います。その選択も含めて,それは,彼女の類稀な素晴らしい誠実さの現れでしょうし,僕らは,勿論,仲間が去るという面では,これまたメランコリックになっちゃいますが,彼女の選択と生き方に喝采ですよね。自分の人生を歩んで行ってください。精一杯,これまで通りに。

実は,彼女の御祖父様が3月末にお亡くなりになられて3/26には,笠岡で葬儀が催され,私も列席させていただきました。お父様で佐賀大学医学部社会医学の友国勝麿教授も来られてました。お父様も,高田晶子先生が自分で選択していった途に対して,素直に受け止めてあげようというような御姿勢のように感じられました。

また,高田先生がここ3年ほど頑張ってくれていた仕事を投稿していたのですが,3/31の夜に高田先生がご自宅でメールを開くと受理の報が入っていたとのことで,翌日,私に転送してくれました。区切りよくといいますかなんていいますか,きっちり,物事を片付けて教室を去る形を,完璧にしましたね,ってちょっと感動の報でした。

高田先生,また,倉敷の方に来る際には,教室に寄ってくださいね。皆,楽しみにしてますので。


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辻岡先生も,2年間,頑張ってくれました。彼も,やはり,真面目に着実に実験に向かってくれたと思います。受け持ったにも拘らず,こちらの都合で,二年で放り出すような形になってしまって本当に済みません。ごめんなさい です。しかし,こういう状況の中,僕自身が,既に2003年秋に骨髄腫関連の仕事を quit しようと決めて,国内の骨髄腫関連のお仲間にも,一報を入れたりした中で,それでも,彼がなんとか,骨髄腫の仕事を継続してくれたことは,大いに助かりました。感謝しております。

辻岡君に関しては,こんな話より,何よりも3月13日にご結婚された話,それが,一番ですよね。おめでとうございます。送別会の日に,倉敷の阿知神社での式の様子のお写真なども皆で拝見させてもらいました。可愛い感じの奥様で,でも,ご挨拶に来られたとき,お話してみると,可愛いだけでなく,非常にしっかりとされてらっしゃるし,しっかり,自分の足元を見据えた上で,日々を過ごされてらっしゃるのだろうなぁって感じられる奥様でした。辻岡君,良かったねって,皆,祝福でした。

彼の仕事も,今朝,投稿しましたし(まぁ,結果が出るのは,少しあとでしょうけれど),また,もう一つの project についても,三浦先生に最後の data を出してもらえれば,近々に投稿まで持っていけると思ってます。本当に,ありがとうでした。

通山先生は,日本の中でもMDSの関連で,ずば抜けた方ですし,通山先生の下で,ご指導を受けることになったこともまた,素晴らしい途になっていくだろうなぁって思います。これまでの辻岡君の姿勢を保ちながら,少しずつ,自分の実験や医科学,血液科学に対するアンテナの拡げ具合,あるいは,感度を高めて行って,いろんなことを,貪欲に吸収しながら,沢山のことを引き出しにも入れておいて,何か,key word が架かってくると,忘れていたようなことまで想起させて,その上で,新しい idea を構築する,というような訓練も,少しずつ,始めて行きましょう。やはり,若い先生が,実験に,あるいは,本学で診療に頑張ってくれることは,非常に重要なことと思います。

辻岡君,もう一度,ゴメン,途中で,離れる事態になってしまって済みません,でも,今月からの新天地は,ちゃんと辻岡先生の今後にとって,非常に有用で貴重な経験の場となることにもまた,疑うべくもありません。自分の与えられた場所で,自分の精一杯を出していってくださいね。頑張ってください。


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高田先生の御祖父様ではないですが,僕自身の母方の祖母も,3/26に亡くなり,実は,3/27-30の新潟での日本衛生学会の後,30日には,「とき」に乗って,東京へ出て,通夜と翌31日の告別式を終えて,帰倉しました。

祖母は,僕と同じ申年で,祖母から母,私,そして長男と申の続く家族です。僕が知っているのは,僕が小学生くらいの頃,あるいは,それよりもう少し小さいこらから,母の実家の市島(以前は,兵庫県氷上郡市島町でしたが,昨年11月くらいより,平成の大合併で,丹波市になっちゃいました)には,よく行っていて,丁度,母の兄の子供たち(2歳上の男の子と2歳下の女の子: 実は,今回の式で久しぶりに出会いました  ・・・ なんと,従兄は,銀行マンから転身,某製薬会社の役員ですし,従妹のご主人は,原子力関連の会社となんだか素晴らしいです)と一緒になって,川で泳ぎ(その頃は泳げました),また,今にして思えば,直ぐ近くなのですが,神社の境内へ行ったり,夏休みにお地蔵さんの周りで盂蘭盆会,夏に感じた井戸水の冷たさ,春休みには蓬を集めて蓬餅をついてつきたてを頬張ったり,などなど,子供としての原体験をすべて,叶えてもらったように記憶してます。また,小学~中学では休みの度に,行って,お祖母ちゃんと一緒に,おにぎりを作ってもらっては,裏の500m超くらいの高谷山(そのころは,横峰って呼んでたような)へ,登ったりもよぉぅくしました。おうちは,僕の小さい頃は醤油屋さんで,倉の方には,大きな(これは多分今,僕が大人になっても充分大きい筈です)樽が(勿論背の丈よりグンと高い)一杯並んでいたのを覚えています。6歳下の弟は,今度は,従兄弟間で,その前後に3人が居て,僕らの上3人とはまた異なった感じで,郷愁しているようです。

ここ15年来は,伯父が東京なので,市島の実家は,人に貸す形(都会生活者が農村生活に憧れて,住まわれる様です)で,おばあちゃんも東京へ行ってました。10年単位くらいで,姿を見たりしてましたが,昨今は,東京へ学会等で出かけても,こっちも,日程ギリギリで,帰倉したりする感じで,無沙汰ばかりの日々でした。二月末から悪いということで3/15には,日本免疫毒性学会の運営委員会に出向く便を早くして,見舞いにも行きましたが,既に,まぁ,意識はなく,こちらが一方的に顔を眺めたり,手を触ったりという状況でした。

安らかなお顔で,浄土へ旅立っていった祖母です。冥福を祈るばかりですし,残された我々,あるいは,そこに集った親類縁者の皆も,自分の人生に対して,精一杯,嘘偽りなく生きていく,活きて行くという姿勢が,何よりもの贐になるのでは,と,感じざるを得ませんでした。亡くなった人々との郷愁にのみ,心のうちを塞がれていれば,自分自身が,生きていく途を惑ったり迷ったり,そうではなく,その郷愁とメランコリーは心の底のある部分にそっと沈めておいて,日々の生活に対して,一所懸命生きて行くようにしなければ,と,改めて思った次第でもありました。



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この春もまた,どうしてもいくつかの人生のラインが交差したり,離れていったりしてしまいます。少し遅めの桜前線ですので,今日は,離れていく人々との束の間,浸る感傷の場面とさせてもらいます。


実は,講師で,兵庫医大から西村先生が着任してくれました。このように新しい出会いもあります。今年もMEの卒研も受けますので,2人が来てくれます。
~~~こんな風は,新しい出会い,これもまた春ですね。今,教授室の外の空気は,少し霞んだ春の匂いを漂わせてます。

で,この新たな出逢いについては,また,別の機会に,歓迎会でも終わった後に,記しましょう。



過ぎ逝く季節が,人々を離散させ,時には,永久の別離の場面までもを演出してしまうけれど,逝く季節を懐かしむ間もないように,来る季節の香しさが感じられ始めている今,ほんの少しだけ,春霞の中に時間を迷子にしてしまって,束の間のメランコリィ,それもまた,明日への気持ちを支えるために。